大震災を経験してない人に伝えるには
とにかく震災があったことを経験していない人に伝えていくことです。
神戸には「しあわせ運べるように」という臼井真先生 作詞作曲があります。
神戸市に在学すると小中学生は必ず歌います。
この歌を作詞作曲された先生の思いが今日まで伝えられていると思います。
震災に対する備えはもちろん、困っている人を自分の安全も確保して躊躇なく助けることの大切さ!しっかり根付いていることを感じます。
たまに阪神間に行くとそういった若者に遭遇することがあります。
“ある日、裸足で座り込んでいる小学低学年くらいの女の子とランニング中らしい高校生。不思議な取り合わせと感じながら通り過ぎようと思いましたが、やはり気になり立ち止まって尋ねると高校生「知らない子が裸足で座り込んでるからどうしたらいいか?困っています」とのこと。歩道の安全なところで一緒に女の子に名前など尋ねていたら、警官がやってきました。50メートルも離れていないところに交番ありました。この光景を見てどなたか交番に連絡してくださったのでしょう。ランニング中らしい男子高校生もさすがです。”
地震を体験していなくて、神戸の小中学校に通ってない人は、一度震災のメモリーモニュメントなどを訪れてみるのもいいかも知れません。
現在の神戸市
メリケンパークから東遊園地、三宮界隈です。
百貨店のそごうが阪急百貨店 神戸に変わりました。
神戸ハーブ園も王子動物園も須磨離宮公園も健在です。
神戸マリンピアはしばし閉館です。須磨浦海浜公園から舞子かけてこれから大規模的に開発されます。
通称スマスイ・須磨海浜水族園もリニューアルされます。
1995年1月17日 火曜日 午前5時46分 当時の私の記憶
私の話です。震災の当時岡山に住んでいたため震度4を体験しただけでした。それでも、それまで体験したことのない揺れに驚きTVをつけても直ぐに震源地は分かりませんでした。その後、神戸が震源地とわかってから、家族に電話をしても繋がらずとても心配しました。
夫は、家族から被災状況を聞いてブルーシートを始め物資を持って行き、屋根にブルーシートを掛けるなどしました。私は妊婦だったため、友達などの連絡拠点の役割をしました。友達からの情報を別の友達に「◯◯さんは、どこの避難所にいて大丈夫だったよ」などの伝えると言う具合に。阪神間に住んでいる人同士は連絡がつかなかったようです。今では当たり前になった災害用伝言ダイヤルもこの震災がきっかけです。東北の震災の時は、SNSが連絡の手段になりましたね。
当時1人だけ、連絡の取れない友人から2週間以上経って連絡があった時は本当に涙しました。「避難所の公衆電話がいつもいっぱいで電話できなかったということで。
3人目を翌月に出産予定の私は、当時何もできませんでした。
いままでは、被災者でもないし当時助けになることが何もできなかったので、震災のイベントには参加していませんでした。
家族や友人と地震の話になるとなんとなく席を外していました。
震災から28年経ってやっとわかったこと
神戸で生まれたからといっても、かつて住んでいたといっても、いくら神戸が好きだといっても被災していない私。
これまでは、被災していない私が震災の行事に参加したり、被災した現場を訪れたりすることに躊躇していました。
昨年、湊川隧道での「1.17希望の灯」のイベントや西宮の「被災地きずなコンサート」(東日本大震災と阪神淡路大震災の被災地の中学生の交流会)に参加してわかったことは、実体験で被災してなくても次の世代に伝えなければならないということに気づきました。
*これからも地震のことを忘れない事は誰にでもできること*
今は地震だけでなくあらゆるところで災害があります。災害の少ない岡山でも西日本豪雨がありました。
今回の神戸「1.17のつどい」の竹灯籠は西日本豪で被災した岡山県真備町からの物です。この繋がりは大切です。「むすぶ」という言葉の重さ。
災害に備える事はもちろん、忘れないために訪れるべき場所があると私は思います。